【読書レポート】『シラノ・ド・ベルジュラック』渡辺守章/訳

 この読書レポートはエドモン・ロスタン作の戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』を読んだうえでの意見・感想をまとめたものである.読み始めた当初は「韻文分かち書き」という形式に慣れることが出来ず,読み進めるのも大変であったが,物語が進むにつれて事細かな情景の描写とリアルなセリフの掛け合いに徐々に引き込まれていき,後半はほとんど駆け足で読破してしまった.以下に文庫版を読んで感じたことや気付いたことを2つ述べる.

 まず1つ目に,ジャン=ポール・ラプノー監督の映画『Cyrano De Bergerac』 (1990) と文庫版の両者の間で感じた主人公のシラノのギャップについて述べる.私が映画でバルコニーの場面を観たときのシラノの印象は,自身の詩の才能には自信を持っているものの,恋には奥手で少し臆病にも見えた.一方で文庫版を読んでみると,正義感は強いが口調が荒く野蛮な性格に思えたため,そのギャップにかなり驚かされた.また,ことあるごとに織りなされる口上の如く語られる詩は,どれも鮮烈な才能を感じさせるものであり,映画でのセリフよりも迫力があるように感じられた.そこで,なぜこのようなギャップが生まれたのかを考えてみた.その答えはおそらく,ロクサーヌとクリスチャンが恋に落ちるか否かというシラノにとっては心苦しい場面と,美しい口説き文句の正体がシラノだとロクサーヌにばれないかという焦りが相まって,そのようなギャップが生まれたのだと考えられる.そして,文庫版におけるシラノの詩がより迫力がある理由だが,これはもう少し単純で,フランス語か日本語かという違いである.確かに,映画で感じたフランス語の美しい発音と演技は,実際に耳で聞くことが出来る映画や舞台といった作品特有の素晴らしい利点によるものである.一方で,一字一句を目で見て理解すること,特にそれが私にとっての母国語の日本語で意味を理解することは,より強烈な印象を植え付けている.そしてそれは1つ1つの単語が洗練されていて,言語の純化に影響を受けた独特な言い回しが再現されているように感じられる.実際,この本の日本語訳をした渡辺守章氏は,本の中で「ロスタンの選んだ言葉の姿(言語態)が見えるというか聞こえるほうが望ましいと考えた」と語っており,既存の散文訳と違って全文に渡って韻文自由詩形分かち書きとしたと記されている.以上のことから,私はシラノの映画と文庫版の両者の間にギャップを感じた.

 2つ目に,物語の結末で私が感じたことについて述べる.アラス包囲戦から14年,第5幕にてロクサーヌは,シラノがクリスチャンの手紙を暗唱することによって真実に気付く.このときのロクサーヌの気持ちを考えると,とても心苦しいものがある.14年越しにようやく自分が本当に愛している人に気付き,悲しみに暮れた14年間を否定されてしまうからである.また,シラノが最期に,あの世へ俺が持っていくものが1つあると言って「それはわたしの心意気だ」というセリフによって物語が終わるのであるが,このときのセリフの訳注を見て私は感嘆した.フランス語の原文では,日本語訳の「心意気だ」にあたる部分は”Mon panache”という.これは羽飾りという意味が転じて伊達な心意気になったということであるが,ここでの日本語訳で最も気を使ったのはその音節数であるという.「わたしの心意気だ(wa/ta/shi/no/ko/ko/ro/i/ki/da)」とすると10音節必要であり,このセリフを役者が演じることを考えると重すぎると渡辺守章氏は考えた.フランス語であれば「mon/pa/naʃ」と3音節であるためである.そこで渡辺氏は「それは,わたしの…」で区切り,ロクサーヌがそれを復唱することで最後のセリフを「心意気だ」の6音節にとどめることに成功している.このときシラノが瀕死状態であることも相まって,このセリフのトリックの効果は,読者にインパクトをもたらす締め括りとして絶大な影響を及ぼしている考える.また,役者が演じるという前提でセリフが考えられているという点が,戯曲という作品の最大の特徴であるように思えた.

 以上の2つが,私が『シラノ・ド・ベルジュラック』を読んで特に印象的だったことである.この作品を通じて,フランスの文化や文学作品,果ては戯曲作品というものに大きく興味を持つきっかけとなったと考えている.今回のレポートでは渡辺守章氏の翻訳した『シラノ・ド・ベルジュラック』を読んだうえでの感想・意見としたが,今後機会があれば別の日本語訳や舞台といった形でも鑑賞したいと考えている.

参考図書:
エドモン・ロスタン『シラノ・ド・ベルジュラック』(渡辺守章訳),光文社古典新訳文庫,2008年

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